ちょっとプチ鬱っぽい感じだった。
たいしたことはないですが。
なんというか無気力な感じ。
自分の力が足りない・・みたいな無力感から来るものではなく、
何をしてもどうせ無意味・・無意味に押しつぶされそうっていう感じのやつ。
前者であればそれはただの抑うつなので
「それならもっと頑張ろう」みたいな、60年代の若者風になれるのだけど、
後者の場合はちょっとタチが悪い。
意味なくイライラするし。
まあ、そんな状態であったわけですが、
いつものように雑誌のSPAを立ち読みしていると
「やっぱり30代が危険!有名人が告白僕も[うつ]だった」
という特集をやっていた。
宮台真司や岡田斗司夫が自分のうつ病について語っているんだけど、
そのなかで宮台さんの言ってたことが、おもしろい内容だった。
彼の言ってたことを、記憶(かなり主観入り)にもとづいて書くと
『
昔から何を言っても何を書いても「変わらない変わらない」って感じで
自分のやっていること(もっと言えば存在の)無意味感にさいなまれていた。
で、それから逃げるためにときどき沖縄に行っていた。
沖縄に行くと、自分が無意味でちっぽけな存在であることが自覚できて
楽になることが出来る。
とはいえ、成田に帰って来た瞬間に
自分の名前や取り巻く状況を、また思い出してしまうのだが・・。
ある時、自分の書いたものを読んだ読者が自殺してしまって、
自分の書いたものは無意味どころか害すらあるじゃないかと思って、
いよいよ2週間ぐらい寝たきりになるほどの症状になってしまった。
無意味感は「社会」がもたらすと考えている。
自分は「社会」と「世界」を分けて考えている。
「社会」は人と人とのコミュニケーションの関係性などで形成されるもの。
「世界」は例えば沖縄の自然など、社会に取り込まれていないもの。
鬱は「社会」の重力に引かれて起こる。
』
この文章を読んで「ああ、僕は今、鬱なんだな」と自覚した。
それに加え、「社会」と「世界」を分けて考えるという方法をとても気に入った。
僕も昔から無意味感に苛まれていたけど、それが年々増加していっている。
無意味感っていうのは、自分の社会的な力がアップするほど
大きくなっていってしまうのかもしれない。
実はその「社会的な力」っていう考えが、おそらく幻想であり、元凶だと思う。
「世界」では全くちっぽけな存在でしかない自分が
「社会」では力をつけて来ていると勘違いして(或いは、まわりに
そうかつぎ上げられて)、空回りしているということ。
一生懸命何かをやった気になっていると、
しばらくしてふと何も出来ていない事実にうっすらと気づいてしまう。
そうやって無意味感が少しずつ堆積していく。
・・なんか暗い話になってしまったので、少しは明るいことも。
鬱にならないようにするには、
自分はちっぽけでたいしたことない存在なんだというのを
日々かみしめるように生きていくことがとても大切だ。
そうすれば視野を広く持てる。
具体的には「挑戦しつづける」というのが良いと思う。
それも出来るだけ大きな目標に向かって。
大きな目標に向かって挑戦して生きるということは、
自分の小ささと常に向き合って生きていくことができる健全な状態なので。
少し話しが変わるけど、このあいだ「高橋洋と飲む」というイベントに行って来た。
高橋さん(Jホラーの鬼才。『リング』脚本とかの人)は
すごく名のある脚本家なのに、
一方で、高校生が撮ったような自主映画を作ったりしている。
なぜそういう映画を撮るのですが?と聞かれて高橋さんは
『
世の中って楽しくないじゃないですか、本当は。
それを無理やり誤魔化して生きてる訳でしょ。
だからまずは楽しくないってことを認めるところからはじめないと
信用されないじゃないですか。
』
と言っていた。
これにはとても共感した。
「社会」ではなく「世界」と向き合って映画を作ると
そういう映画が出来ると思う。
またちょっと話が暗くなったかも。
まあ、そうこうするうちに、僕は鬱について自覚を深め、
克服して、大分良くなったというわけです。
ちなみに最近は映画をいろいろ研究している。楽しい。